キリスト教教義

今日はカウンセリング技術の向上のためという名目で、
その道の本をゆっくりと読み、
今日になって読み終えた。
そして、この本を飾っている人物の
C・R氏の家庭環境というのが、
キリスト教的教えのもとで、
非常に窮屈な思いをしたという事が、
書かれていたのだった。
慈愛、博愛、隣人愛・・・
素晴らしい教義である。
しかし、この言葉を素直に受け入れない人も
中には存在する。
そんな時、この族達を簡単に責める事は
非常に単純で、
私はここの所に考えを巡らした。
美しい言葉を拒否してしまう人は、
自分の根底が”善”である場合ではないかと思った。
自分の根底が”悪”である場合は、
美しい教義は生きる。
「自分は悪い、だから自分を高めるためにいい子になろう」
という決心をするかも知れないが,
自分の中が善であれば、
この美しい教義は心の負担となり、
自分を押しつぶすものになるのではないか?
だから、いい子の負担というのは、
いい子のうえにいい子になるために教えを受けて、
しまいにはどうにもならない状態を生み出す。
そして、子供のストレスを発生させ、
ウツ状態を引き起こす。
今の教育は子供から離れて、
大人から見た、大人が納得する児童教育に
なってしまっているような気がして・・・