マイブーム

最近の私にとっていいこと、
つけ麺を食べること。
つけ麺は普通のラーメンが汁と麺に別れたものだけど、
麺の汁が濃いめになっているものだね。
それに浸けて食べるとすごく美味しい。
日本の食文化に入って盛り上がりを見せている。
浸ける汁に具が入っているのが技。
最近、つけ麺店を見つけてあちこちで食べている。
つけ麺でも色々ある。
鰹だしの汁、醤油味の汁、鶏肉のだしの汁など
たくさんある。
どの味の汁も美味しいとなるとすごく面白い。
美味しいものって沢山あることを発見。
今、一番最高のつけ麺は東久留米の黒潮屋のものだな。




追伸ー近日中にピオスのホームページをリニューアルします。

2011.1.2

新年、明けましておめでとうございます。
去年はふつつかながら、
私のブログを読んで頂きありがとうございました。
今年も愛し愛される自分を作っていきたいと思います。
よろしくお願いします。

今、思うに去年は精神の鍛錬に従事した一年だった。
体調を崩しベットに長く横たわって、ひたすらもの思いに、
ふけっていた時もあるし、考えてみると心を見つめていた日々が
続いた。
心を見るのも疲労するものだとも思い、少し痩せたような、
気がする。はっきりしない重いものがあった。
それを解決しようとひたすら心の色々な形を見て行った。
それが年明けとともに、私を明るいものが包んで広がった。

今年の抱負、これから
徐々に日常生活に戻って行く事と
現実の力を蓄えて行こうと思う。

私のこと 留学時代

大学卒業の頃、思わぬ話がきた。
渡米です。このまま就職かと思っていたのですが、
アメリカに従姉妹夫婦とその子ども達が住んでいて
そこからの出発という事でそこを頼りにアメリカ留学を決心した。
初めての海外でドキドキしていたけど、なんとか一年間乗り切った。
大学留学で、私は自分が今まで出来なかった事を、やってみたいと
強く思っていた。そこで大学のドミトリーに入り思いっきり自分の余った
能力も加えて、勉強に打ち込み行動そのもの自分そのものを変えていった。
本当にアメリカ留学、一人暮らしに自分の力をかけたが、今になって、
私の複雑なものの様相になっている。
自分が立って行くのが、私の考えだったのに、何かに振り回されて行って
しまうのではないかと思うよになったのは最近。全エネルギーだった。
アメリカ留学でそれはそれは生活にあこがれを持って、いたけれども
現実に見たものはアメリカの英語教育が、あまりにも日本と違っていて
ビックリしたのだった。
文法が簡単すぎて、会話自体がわからず、すごく早い。
すごい色々な所で、ギャップが生じて非常に困った。
そこからが私の英語の迷路だったのだ。授業をボイコット。
会話が落ち着いて聞くとがわかる所もあるのに、急に理解できなくなって
しまう。それが私の会話だった。
色々な箇所で英語を上達させるには、というのは留学時代に様々な考えた
けれども、英語を完成させるには相当な勉強量が必要だとわかった。
だけれど、もう一つ反転して、従姉妹家族との旅行はとても思い出に残った。車でまずは観光客行く所としてNAVY,ARMYの施設やメリーランド州、ワシントンDC、ワシントンモニュメント、アーリントン墓地、ホワイトハウスリンカーン大統領のピストルで打たれた劇場、その隣の施設など、とても幸せな気分だった。
あと一つ、すごいHAPPYな出来事を披露すると、私、学校が終わり、バスに乗って、あるところへいくのに、反対のバスに乗って、全く別のわからない所に行ってしまい、終点で降りたのはいいが、どうしようかと片言の
英語で、反対側にいくのはどうしたらいいか、聞いていたのだけれど、
バスの運転手がなんと、私、一人を乗せて、バスで寮の近くまで送って
くれたのだ。ビックリした。アメリカのおおらかな大きな親切心を感じた
時だった。そごいですね。

初めてやった事が多かったアメリカ滞在。
なにもかも一人。
与えられているのではなく、自分からの行動がアメリカ社会。
自分から一切を行い、その責任は自分自身がとる。
自分の身は自分で守る。基礎に家族愛を持って物事をみる。
自分がまずある所。

だからアメリカの私の姿を日本に当てはめると合わない所があり、
気の回し過ぎでぼやけた所があり、教育がとても厳しいのが、日本であるのがわかった。
あと広大なのがアメリカ。
何十分もかかって目的地へ着く。ストアが遠い。それがアメリカの
一番の感じ。

それをアメリカで学んだ。

私のこと 大学

高校の頃の整理のつかない動揺が治まりきらないまま大学入学時期を迎えた。息苦しいのは下で上が軽い。私がそう感じた。
急に外見が変わっていた。
お化粧をしたり、服に懲りました。高校の終わりから決心した事は、
自立するという事だったけど、そこに自由を取り入れてファッションを
気にする私と読書や社会構造の勉強をして行った。
その2つが私の大学時代の表章だった。
大学の人間関係と言ったら、はっきりしないものに覆い隠されて
自分が希薄になっている。
私自身は大学時代はどこの組織にも入らず、自分自身の自立を目標にして
成長させようと思っていた。少しみんなと違っていたと思う。
だから普通の女子大生として生きて行きたかったり、水面下ではっきり姿がみえない子がいたり、すごい一言でビックリさせた子もいた。
男の話ばかりする子や内部をかく乱して気がつかない子や私は成功しない
子とはつきあわないと言っていた子もいた。
しんどい人間関係だった。
もう黙るしかなくなっていた。
内部から「私達バラバラだね。」って言っていた子がいるけど
もう私は複雑な気持ちで泣きたくなった。
  

そんな時ほのかな明るい光が見えてきた。主人との出会い。
私が主人のTを見たのは大学2年アルバイト先で小さな新聞社だった。
Tは本を読んでいた。それがとても好感をもった事だった。
本を読む人なんだって思ってうれしくなった。
そんな時Tから声をかけてもらって駅のホームで会って話をした。
パンクが好きだとか作家YMが好きだとか言ってとても話が面白い人と
感じ、もう勝手に「この人とつき合ってみたい。」と思ってしまったのだった。相手の心を全く考えず、そんな風にしてしまっていたので
押しかけて行ったのかもしれない。
自分は好かれているとばかり思い込んでいて、今思えば、強引な人間だと
いう事ですね。

そんなTだけど距離感を保ちながら、私を教育して行って私を安住の地に
置かない人だった。けれど一方で私をどんな時でも支えてくれる人だった。

私とTは大学が同じではなかった。
Tと会った大学2年生の時は私の通った大学内が非常に荒れていて、
この頃から時々体調を崩すようになった。仕事で虎の門を歩いている時
急にお腹に激痛が走りそのまま入院したことがあった。

Tの大学はH大学で、私達のY大学よりも突出した生徒がいっぱいいた。
そんな出会いから徐々にH大学へ遊びに出かけるようになっていた。
大学生、大学ってすごく自由。だけどすごい事に不正をみたら徹底的に
弾弓する所で、それを満喫して何でもいいと思ったら大間違い。
落とす、落とす、すごい所ですね。

そんな時、T入っていたらS研究会。何回か私もそこにお邪魔して
レジュメを提出して学習会にも参加させてもらったけど、みんなで
和を作り、批判もありながら共に成長して行こうという気構えが、
みんなの中にあったので驚いてしまった。
みんなそれぞれだけど、みんなでやり遂げようとしていた。
二つの思いが相反しながら当てはまるものがあった。

Y大学は比較的もの静かな学生が多かったけど、思いを胸に秘めていた。
井上円了という哲学者が開いたということもあるけど一つ心に残る書物を
提示してくれた先生がいた。
それは「成功」という本で簡単に言えば「世の中は成功じゃない。」と
いう事を篤と言いたかったのだと思う。
その時は非常にショックで目標が無くなって体がフラフラになってしまったけど、今思えば、そんな観念を持っていた自分がとても恥ずかしい。

社会と自分を見つめた。
社会でアルバイトするという事で社会になじんむ事を考えるのだけど、
そこに自己の目標、自立があり、そのための様々な行為があったため
一方で慎ましく、一方で伸びやかで二つの心がアンバランスになってしまい、葛藤状態になってしまったのもこの時期だった。
そしてこの時に活動家の本を手にしたのだった。社会への反抗と個人の
生活について考えていた。
社会に敵対したり反抗したりするのが、自分のせいではないかと真剣に
考えた。社会への反抗は自分の中の不満ではないかと思っていたけど、
その中で連合赤軍関連の本を数冊読んだ。
暴力が悪いように思っていないのだけれどなぜなんだろう?
あんなに社会を良くしたいと思っている人たちがどうしてかな?
一つすごく不思議なのは、女の人と平気で関係を結ぶのがなぜなんだと
と思う。
女の子を大事にできないのだろうか?
女の子の意向を聞いているのだろうか?
そこがわからない。

今、思うと私は国がやさしくして、これだけの人を守っているのが
すごい事のように思うのだけれども、自分がいた家の事がそもそも
原因で、そこの不満を社会にぶつけてしまうのがよくない。
やさしく見守っている人がいるんじゃないか?
家族関係や家庭内のいざこざを解決すると次のステップに進めるのでは
ないかと思う。

私のこと 高校

高校生の頃、会ったN先生どうしているかな?
先生は白が似合う。
先生は中学校の卓球部の顧問から紹介されて出会った人だ。
先生は色が白くてきれいなお顔。先生の全体は私の心の満足させる。
先生は私に甘さと辛さを教えてくれる。
入学してから数日後に職員室に行って先生に会いに行った。
先生は快く受け止めてくれて少し話をした。
私の心が迷路に落ちた。そして旅に出た。
先生は”不動心”を教えてくれた。だけど、私は、白いブツブツの中の向こうに先生がいるような感じがして、そこで先生は何を思っていたんだろう。

先生は卓球部の人達と仲良くしていたんだと思う。
その中で同じクラスだった卓球部の女の子と一時ウワサになったので
驚いて先生をみないふりをした。
その女の子って選択を音楽にしていたので同じものを感じていたけど
何か事情があって何かに振り回されて、何か追いかけて、何かを見ながら
走っていた。だから先生も何か困った事があったんじゃないんだろうか。
好きだったのにわからなくなった。
でもそんな中で、音楽の授業とクラスの仲間は楽しかった。
さっぱりとした雰囲気になって綺麗な空気にクラス内がなった。
あの時ほどの幸福感って今までで何回あっただろうかと思う。

高1の時はひどかった。
自分を「単淳子」(単純)だと言って自分で自分をいじめた。
自分を初めの一歩の位置において歩もうとした。
中学の時の優等生の自分を落とした。
だから高校に変わって自分を知らない人と会って、自分も知らない自分で
行こうとして様々な人間のありさまを見た。
これから大人になろうとする高校生達が色々な問題にぶちあたり、
あらわにして行ったことで混乱状態になって行った。
大人と社会を感じる。みんなそれを見ると心が動揺していた。
押さえきれず人のいい心を嫌ったことのある人が現れた。

私のこと 中学生

中学校に入る。
小学校を卒業して中学校になると、大人になると教えられた。
中学校の思い出となると、最初に、門の所でにぎやかにみんなで雑談
している光景が浮かぶ。こんな楽しいひと時もあったけど、
またもう一方で非常に不安にかられていた。
急に落とされて行く自分を感じ、とても困惑してしまい、
このままこんな状態が続くなんていやだと強く思い、不安で頼りなくなっていってしまう自分と逆の生き方をしていこうと思った。重みがあったけど、それを押し返すように生きて行く事を考えた。
本当はあの時、私はドロップアウトして行く不良の道があったけど、
逆に優等生として存在しようと思った。
勉強はできない方じゃなかったけど、そこで私のアイデンティティ
行動しているうちに確立していった。人格というのは迷いながら、
あるいは疑問を持ちながら一つ一つ経験をして行き結果を出しながら
作るものと思うがそうしなかった。
あの時、中学生達っていろいろな体験をしていくのだけれど、
レールを一方で作って、それ以外の裏の部分が心のゆるみとなって
広がってしまった。とても怖かった。
優等生だったのにとても不安にかられて、優等生だったのに心のあらい
女だと思われていた。
それだから私は不良の心を持った。
学級委員はやっぱり自分の価値をあげるためにあったのだが、不良の心が日が経つにつれ増大していった。
私はなぜこんなに不安なのか?私は精神が破綻するのではないか?
ぎりぎりのところで生きていた。
そしてまた不良からさらに落ちて娼婦になるんじゃないかとか、なぜか縁のない覚せい剤がとてもとても怖くてしかたがなかった。

そんな時、A君。不良とみられていたA君が、そんな悩みを
背負ったのではないか?すごく気になった。
A君とは一言、私を「Mさん」と呼んでいたけど、それ以外話さなかった。

私のこと 小学校高学年

小学校4年生になってクラス替えがあり、
それまでの陰鬱が次第に良くなっていった。
初めは気づかなかったけれど、クラスの中がはっきり
わかるようになり、一人一人の個性を感じるようになった。
友人関係がバラエティに富むものになっていたのだ。
私自身は感情を抑えながら良い子にしていたつもりだったけど、
ある子にお帰りの会で私がその子に鞄をぶつけたという事で
発表された。その事で憤慨されてしまい、戸惑った。
ここから人間関係の試行錯誤が始まった。
とても仲良くしていた子だったんだけれども。
私、もしかしたら、自分自身が思っている自分と他人が思っている自分と
違うのではないかと考えるようになった。
一瞬、思ったことは、迷いの点になった。



恋心。
私が好きになった少年が一つの暖かい心をもたらした。
私はその少年を心の中で何回も呼んでいた。
その子が好きなのにほとんど話さなかったか、あるいは全然なかった
かもしれない。
写真も一枚同級生の撮ってくれたものがあるが、
その子が今どうしているかわからないけどスポーツが得意で
その中で水泳をしていた時のダイナミックな泳ぎでみんなを圧倒
していたけど、その光景が浮かんで印象が残る。
だけどなぜか弱い。
今でも拾った恋でも失った恋でもない。